迷言?

家の弟リポート。
1、先生に自治問題を熱く語る。
2、なまじ医療知識がある。
3、加えて零戦が好き。



現在・・・・小3。


(゜д゜)ポカーン。
どうすればいいですか?話す内容が
「お兄ちゃん、ブッシュの支持率落ちたよ!!」
・・・いや、聞いてねえし。何で帰ってきて早々その話に持ち込むんだ!


 ⊂(゜Д゜;⊂⌒`つ≡≡イヤーーーーーー!!
俺に家はマトモな奴がいないのか?



あ、俺自体がマトモじゃない
あ、はい



・・・・。
勉強しよう。
本日習ったことは・・・・関係副詞があるときの時制。


いや〜〜〜if,when,ヤメテ━━━━(゜∀゜;)━━━━ッ!


もう、未来完了ですか?



俺の受験も未来完了してください(切実)


・・・帰りは・・・・あ・・・・あの糞やろうは!!!



某K中学つながりの糞女子。


・・・見たくねえもん見てまった・・・・。
ついてねえ。実についてねえ。抹殺リスト上位の糞やろう・・・・。


(#゜Д゜)ウゼェ!!



はぁ〜〜〜〜。仕方ないので、今日の夜は単語と格闘(関係ねえ・・・)



PS。
今日は帰りに蛙がたくさんたくさんいました。
in田圃
けったで
「しゃーーーーーーーーーーー」
と走っていると周りから
「んーーー。んーーーーーー」
ウシガエルが・・・
「ゲコゲコゲコ・・・・・・・」
とノーマル蛙が。


帰るって緑じゃないんですね。



土色です。



ええ。断言します。田圃にいるせいで泥まみれ。時々、何を思ったか田圃から飛び出てきて
「あぶねえ!!!」
てな事もありました。



・・・・お願いです。飛び出さないで(切実)
秋のバッタのように大量で飛んでくるのも困りますが、蛙の場合、下手すると轢いちゃうしねえ。
それから、ここ最近、雷魚を農業用水路で見かけたから注意してね。



食べられ・・・・(以下省略)

PS2.


横須賀の空はかなり雲行きが怪しかった。
珊瑚海海戦から約四ヶ月。
岩塚は隻腕になって退院してきた。


戦況は、厳しくなっていた。

珊瑚海の海戦で勝利を収めた後、ミッドウェー島の攻略に乗り出した日本軍は、ウェークに集結した。


しかしここでアメリか軍第8任務部隊(サラトガ、ワスプ)の奇襲を受け、貴重な四隻の空母は擱坐してしまった。
これに乗じてウェークに総攻撃をかけてきたアメリカ軍だったが、もともと私が所属していた空母「祥鳳」「瑞鳳」「鳳翔」と戦艦「大和」以下5隻の戦艦群の激烈な迎激戦によりこれを退けた。
しかし主力を失った日本軍はこの作戦を継続するわけにはいかず、一度トラックに戻る事となる。
さらに、アメリカ軍は攻勢をかけ始めた
昭和17年8月7日 米軍は主力をもってガダルカナル島に、一部をもってツラギ島に上陸した。
 『望楼(ウオッチタワー)作戦』の開始である。
 ツラギ島には米軍2個大隊が上陸、我が第84警備隊等約250名は0603を最後に通信を断って玉砕した。
そして、今。相方の復活と同時に俺たちは新たな機体を得て戦線へと戻ることなる。


ガダルカナルを巡る戦闘の開始である。
8月13日 第17軍百武晴吉中将と第11航艦塚原二四三中将は、ガ島奪回作戦に関して現地協定を締結した。
 「キ号作戦」と呼称された作戦は、一木支隊と海軍陸戦隊だけでガ島飛行場を奪回しようとするものであった。
 一木支隊は、第7師団歩兵第28連隊長 一木清直大佐(28)を長とする2000名の部隊で、
 本来ミッドウエー島攻略作戦に参加が予定されていた部隊である。
 また横須賀第5特別陸戦隊は、司令安田義道大佐以下616名で6月以降グアム島に位置しており
 第8艦隊の指揮下にあった。

 一木支隊の乗船していた輸送船は、9.5ノットの低速船であった。そこでまず速度の速い駆逐艦6隻に
 約900名の人員を先遣隊・第1悌団として輸送し、支隊残りは輸送船による第2悌団として上陸させることになった。
 海軍陸戦隊は第2悌団と同行することとなった。
 先遣隊のみで攻撃するか、第2悌団の上陸を待って攻撃するかは支隊長の判断に任されたが、
 第17軍の意向としては先遣隊だけで攻撃奪取する趣旨であった。また支隊長一木大佐も同意見であった。
 なお軍司令部としては攻撃失敗の場合、やむを得ざればガ島一端を占領し航続部隊の来着を待つべしと命じた。

 一木大佐は、支那事変発端となった盧溝橋事件当時の大隊長(北支那駐屯第1聯隊第3大隊長)で
 歩兵学校の教官を永年勤めた実戦指揮に長けた武人であった。
 また旭川で編制された現役の将兵は、輸送にあたった海軍関係者が称賛するほど、動作溌剌、軍紀厳正であり
 我が陸軍の伝統的「白兵夜襲」をもってすれば、ガ島奪還など簡単なものと信じていたので、
 各人の携行する小銃弾は250発、糧食は7日分であった。
 先遣隊は、支隊本部、歩兵大隊、工兵中隊 重機8、軽機36、擲弾筒24、歩兵砲2の計916名と定めた。

 ガ島には、飛行場設営隊などの生存者と海軍陸戦隊の高橋中隊(113名)を合わせて
 『ガ島守備隊』が第11設営隊長 門前鼎大佐指揮のもと編成されていた。
 一木支隊による奪回計画を知ったガ島守備隊の士気は大いに挙がった。
 各種情報を総合してガ島米軍兵力は約2000名、一部はツラギ方面に退避途中で戦意は低いと考えられていた。
 とすれば米兵など鎧袖一触、我々は支那大陸で1をもってよく10にあたってきたではないか、と。
 だが実際は海兵第1師団を中心とした13000名(そのうちガ島には10900名)であり、
 10倍の敵に銃剣突撃の戦術をもって相対することとなるのである。

8月18日 2300 上陸した一木先遣隊は海岸線を西進、ジャングル内で大休止をとった。
 8月19日 0830 支隊長は渋谷大尉、館中尉以下の情報所要員と将校斥候34名を派遣した。
 ところがこれら部隊が3名を残し全滅したとの情報が入り、不幸な前途を暗示するかのようであった。
 8月20日 0230 支隊長は攻撃計画を示した。
 8月20日夜半から『行動即捜索即戦闘』の拙速主義をもって一挙に飛行場を奪取しようとするものであった。
 大隊長蔵本信夫少佐、次いで支隊長一木清直大佐が尖兵中隊長の位置に先行した

8月21日 0118 ジャングル内に緑色の信号筒が打ち上げられた。
 尖兵第2中隊は擲弾筒の集中射撃の支援下に銃剣を振りかざして突入した。
 支隊長は一部で正面から牽制、主力をもって左翼方面から砂州を超えて攻撃するよう部署を行った。
 8月21日 0310 主力の攻撃が開始された。
 弾幕を集中する米軍に対し、我が夜襲はすさまじいものであったが、
 この正面を担当した海兵第2大隊の防戦も必死であった。
 一部には鉄条網を突破し敵陣に突入するものもあったが、大部分は砂州の前後に折り重なって倒れた。
 支隊長は機関銃中隊や大隊砲小隊(砲2門)を加入させたが、
 米軍の迫撃砲を主とした砲火が反撃集中されるのとは全く比較にならず
 支隊将兵は次ぎから次ぎへとイル川の穏やかな河口を埋めていくという悲惨な状況が展開された。

 8月21日 0900 支隊南側から米軍の反撃が開始、午後には戦車6両が加わり支隊の背後を蹂躙、
 さらにはグラマン戦闘機が頭上から攻撃を加えてきた。
 生き残った兵士たちは対戦車地雷で2両を破壊したが次々戦死、もはや支隊の抵抗もこれまでと
 一木大佐は1500頃軍旗を奉焼し自決した。

このとき、日本軍の山本は決意した。
「ガダルをすてる。」
これには作戦を立案した第17軍百武晴吉中将と第11航艦塚原二四三中将ともに猛反対したが山本のこの一括で事態は変化した。
「ならば、貴官たちはどのようにしてあの島を守るのか?日本からはるかにはなれた島で戦闘をつづけて何になるのか?我らには、まだポートモレスビーがある。ラバウル航空隊と現状戦力で兵糧攻めにし、そのかた敵の本元の攻撃ポイントであるマリアナ、マーシャルを固める!」

日本軍は蠢動を始める