何がために生き、何がために死ぬか

本日K合塾は二時間で終了し、名古屋の地下街を探索してきました。
服を見、鞄を見ては今の鞄が実はベストときづく。
いつも目の前に景色が広がることのありがたさや、今日もまた無事に生きたことにきづく瞬間、いつも題名に書いたことを思う。
いつも目の前にある大切さ、ありふれた日常、繰り返される毎日に人はよく飽きがちである。私も、実力がないために単語帳を開き、長文を読み、また、数学が解けなければテキストを見てとき方をマスターし、国語に関して無知な自分を呪っては、黙々と文を朗読する。化学を見ては、その洗練された無駄のない自然の成り立ちに驚き、感動する、物理の当たり前に起こる事象を見ては、その簡素過ぎる内訳に少し落胆を覚えたりする。
これがいつも繰り返される。きっととどまることなく続く、おそらく。死ぬまで。
しかし本当に飽きたならきっと人なんかはすぐに死んでしまうのではと思う。


創造力


なぜかこの地球では人にのみ与えられたと思われてる力。
「明日になれば彼女が出来るかも!」とか
新高校1年生のけたたましさを見ては
「今ここで殺したら血の池になるなw」とか
「明日になると数学の神様が俺の体にガウスを召喚してくれるかも?」とか・・・
画一化された社会で人が生きていける原動となるべきもの。


どうしてそれを大人になるにつれて失うのか?


空想する人はともすれば「気が狂ってるw」といわれ、人と違うことがしたいと思えば「テメーハでしゃばりすぎなんだよ!」とか


どうしてそうも生きる原動を失いたがる?


現実を垣間見て絶望する人は腐るほどいる。事実ここにも一人w


・・・何がために生き、何がために死ぬか・・・

私は、失いつつあるこの無尽蔵な創造力を使い切るために生きよう。可能性を広げるために今は翼を鎖でつないでおこう・・・


↑何だこれは。そっちがが聞きたいよね?え〜と帰りの電車内で考えてたことなので内容がとてもハードですw。
電車内、バス内と、耳障りな騒音をたて喋る餓鬼ども。抹殺しないためにこの考え事に集中してましたw
人間はこうゆうことが出来るから便利ですねぇ。大学にいき、何をするのだろうか・・・。


きっと生きる理由探しをするんではないかと思います。
去年は敗北した俺も大学時代こそは!と。だんだんと大人になって行く奴らを尻目に「どうすれば奴らよりより濃密で意味あることが出来るだろう?」と。
去年、あの戦争で勝った奴らにいかにして・・・克つ・・・か。
俺には、中学時代異様なほどに学が出来るやつらが回りにいました。そのころ今ほどの努力はしなかったにせよ、出来うる努力をしましたが勝てませんでした。
そして今もそいつらはのうのうと大学に通っています。悔しさを覚えると同時に、こんなことを不意におもいました。


「なんでそんな定石どうりに生きるのか?」


きっと、彼らは俺以上の努力をしたのでしょう。しかし、なんと表現すればいいか・・。その生活に満足し、その生活を充分に楽しんでると思えないのです。
しかし私がよく会話するSherlock君に関してはPCを通じても楽しんでる様が見受けられます。勝手にそう思います。


この違いはなんでしょうか?


そして、生き方に関して魅力を感じるのは、もちろん後者です。
どんなに頭がきれても、どんなにすごい研究科でも、どんなに名誉があっても


人に夢の断片すら見せれない奴はくずだ


そう思います。なぜアインシュタインがすごいのか、何故ピカソがすごいのか。
今でも天才的、神童はいます。しかし彼らのようには賞賛されません
なぜか?
そう、アインシュタインピカソもどちらにも共通したものがあります。それとは


無限の可能性を秘めたパンドラの箱の発見。


です。アインシュタインは、相対的な時間の関係、ピカソは複数から見たこの世界の描写方。
このどちらもがこの世界になく、彼らが創造したものです。


実に美しい


と思います。俺は、夢を与える仕事がしたいがために科学者になりたいのかもしれません


一人小学校の図書館の隅で伝記を読んだその日から・・・・。