他人の幸せはかくも苛立たしい事だろうか。

今の今まで、私は、他人の幸せを見ることを人生の指標としてきたつもりです。
しかし何だろうね、この苛立ち。


消して、幸せは押し付けられるものではなく、勝ち取るもの。


敗者に、その権利はない。まして、努力せざるものにも。


まぁ、いわゆる親との衝突なわけで。
私は「いわゆる幸せ」を押し付けられ、思うが侭にならないことを私にぶつけてくるわけです。
私には選ぶ権利などないのだろうか?


私は、私の幸せを二の次にする親の姿を見てきたつもりです。
それが私の最大の誇りであり、私の指標でしたが。


親も老いたのか、他人を嫉むようになりました。



その姿は滑稽でした、これが目指すべき未来の私だろうかと。


他人の幸せを望むことを、私は真っ向から否定されているわけです。その当事者から。
彼らの姿は、虚像だったのでしょうか。


所詮、崇高な人間などこの世にはいないのだろうと思います。誰もが等しく汚いのだろうと。




しかし、私だけは、目に映る人々、かかわれる人々に笑ってほしい。
それが一瞬でもいい、それが私の幸いでした。



私は、望まれる幸せのために、自分を再び殺すのでしょうか?
あるべき自分のために、ありたい自分、あるべき自分を失い続けるのでしょうか?




私は誰なのでしょうか?私はどこへ行くのでしょうか。


計8名の生徒に、私は、あるべき幸せを押し付けるような人間でいないか心配です。
それは望まれる幸せを押し付けてしまう大人のエゴであってはならないと深く深くそう思います。


私のあるべき姿探しは、当分終わりそうもありません。



ああ、苛立ち?
当然、親へ対する苛立ちです。